「ナチズムというファシズムは私の死をもって終焉を迎える。だが100年後、新たなファシズムが世界を覆うだろう」
1945年4月30日。
独裁者アドルフ・ヒトラーはベルリンの地下壕で自らの命を絶った。
そして世界を戦火の海に引きずりこんだ罪人として歴史にその名を残した。
悪の象徴として語られてきたヒトラーであるが、もし彼が存在しなかったとしたら2度目の世界大戦はおこらなかったのだろうか。
誰が言ったかは知らないが、歴史にもしもが存在しないというのは通説である。
それは誰しも時代の流れに逆らうことはできないからだ。
人が人として生きる限り、それは揺るがすことのできない現実である。
ならば彼が歴史の表舞台に立ったのは必然だったのか。
時代がヒトラーを求めたのか。
21世紀を生きる我々には、はっきりとした答えを知ることはできない。
民主主義の化けの皮が剥がれつつある現代と、冷戦終結と共に押し寄せたグローバル化の波が収まりつつある世界。
死の間際に放った独裁者の言葉は、今ひっそりと現実になろうとしていた。
黒森峰女学園の教室では、女性教師が黒板にドイツ戦車の成り立ちについて長々と文を書いていた。
無言で綴られていく文字を生徒達は、一生懸命ノートに書き写している。
西住みほも黙々とペンを走らせていた。
「西住さん、どうかしたの?」
隣の生徒がみほに声をかけた。
みほは、え?と言って顔を上げた。
すると、ポトッと水滴がノートに落ちて文字が滲んだ。
みほは慌てて顔を触ってみた。
涙が頬を伝っていた。
「どこか痛むの?」
隣の生徒が心配そうにみほを見ていた。
「いや、あの…ちょっとお腹が…」
みほがそう言うと、隣の生徒はさっと手を上げた。
「先生ー!西住さんお腹痛いそうです!」
突然の報告に女性教師はビックリしていたが、すぐにみほを保険室に連れていくよう保険委員に促した。
「あ、大丈夫です、一人で行けます…」
みほはそう言って席を立つと、教室中の視線から逃げるようにして教室を出ていった。
廊下へ出ると、足早に駆け出した。
両目からは次々と涙が溢れだしてくる。
みほは保険室には向かわず、屋上への階段を昇っていった。
「は…あっ…はあ…」
泣くのを我慢しようとすると呼吸がおかしくなる。
みほは屋上へ着くと、その場に座り込んで崩れるように泣き出した。
心が悲しくなって悲しくなって仕方がなかった。
この悲しみは、これから先ずっと癒されることはないだろう。
「西住さんどうしたの、こんなところで?」
再びみほを呼ぶ声が聞こえた。
振り向くと、そこには蝶野一尉が立っていた。
「いえ、あの、これは…」
みほは泣いているのを隠そうとして必死に涙をぬぐった。
「大暮さんのことかしら?」
「…」
「急な転校だったものね…。特に仲が良かった西住さんには辛かったでしょう」
「…」
「でも元気を出して。明後日はもう決勝戦だしね。あなたは副隊長なのだから、いつまでもくよくよされては困るわ」
「…はい」
みほは真っ赤に充血した目を下に向けたまま返事をした。
「それにあなたが大暮さんから偵察任務を引き継いで得た情報はすごく役に立つはずよ」
「そうですかね…そうだといいですが」
「きっと大暮さんも西住さんの活躍を願って…」
「すいません!…もう教室に戻りますね…」
「…大丈夫なの?」
「はい、では失礼します…」
みほは逃げるように階段の方に向かって行った。
蝶野一尉はその様子を訝しげに横目で見た。
「あの子、何か知ってるわね…」
「このデータによれば敵の車両数は全部で15両。T-34/76が10両、T-34/85が3両、KV-2が1両、IS-2が1両…」
三年生の高良雅美(たから まさみ)は配られた資料に目を通しながら言った。
「すべての車両が76㎜以上の砲を搭載…やはり基本的に攻撃力が高いわね、プラウダは」
隣に座っていた同じく三年生の宮城彩子(みやぎ さいこ)も口を開いた。
8月14日の夕方。
黒森峰女学園戦車道部隊の会議室では、8月17日に行われる決勝戦へ向けた最終作戦会議が行われていた。
各車両の戦車長が会議室に集結している。
「こちらの三号戦車はプラウダのどの車両にも歯が立たないでしょう。三号はあくまで囮に使った方がいいわね。三号は敵戦車と会敵しても戦わないように。わかってるわね小梅さん?」
「え?あ、はい!」
三年生の西條九十九(さいじょう つくも)に話を振られた一年生の赤星小梅はとても緊張していた。
何故ならば、一年生の身でありながらもレギュラーとして三号戦車J型の車長に抜擢されていたからだった。
小梅の他にも一年生から、ケーニッヒスティーガーの車長に逸見エリカ、ティーガー1型の車長に西住みほの二人も選出されていた。
更に西住みほには部隊の副隊長も任されている。
この人事は5月下旬に行われた新部隊再編で決定したことである。
新部隊発表は学園内外に非常に大きな驚きを与えた。
部隊の中心人物を下級生が占めるという衝撃的な人事だったからだ。
今年で最後の晴れ舞台を迎える三年生や三年生の親兄弟からは苦情が殺到した。
意図的な選考だったことは誰の目にも明らかで、この人事に納得している上級生は少なかった。
その中でも西條九十九は特にその不満を顕にしていた。
「ちゃんと話を聞いているの?しっかりしてもらわないと困るのよ」
「あ、はい…すいません…」
小梅は日頃から西條に目をつけられていた。
何かにつけて突っ掛かかってくる西條に、小梅はひどく狼狽していた。
「あのねぇ、足を引っ張られるこっちの身にもなってみなさいよ。あなた車長なのだからもう少し自覚してちょうだいな。だいたいねぇ…」
「そこまでだ西條。ここはお前の独演会の場ではない」
西條は言葉を遮られた。
言葉を遮ったのは二年生の西住まほだ。
下級生から嗜められた西條は口をつぐんだ。
西住まほは二年生にして黒森峰戦車道部隊の隊長だ。
まほも今年の部隊再編時に隊長の座についた。
ただみほやエリカ達と違い、すでに高校戦車道で輝かしい功績を残して全国的にその名を轟かせていた為、この決定には誰も文句を言えなかった。
まほの質実剛健な性格や堂々とした振る舞いも相まって、例え上級生でもまほのことは認めざるを得なかったのである。
「西條の言う通り三号はまともに戦うことはせず、敵を誘導することに専念しろ。こちらの重戦車や駆逐戦車の前へ引きずり出せ」
「了解です」
まほの指示に三号戦車の車長達は返事をした。
決勝戦における黒森峰の車両数は全部で16両。
その内訳を以下に記す。
三号戦車J型 4両
四号駆逐戦車ラング 2両
パンターG型 4両
ヤークトパンター 1両
エレファント重駆逐戦車 1両
マウス 1両
ティーガー1型 2両
ケーニッヒスティーガー(ティーガーⅡ) 1両
強力な攻撃力と防御力を持つ重戦車を中心に、駆逐戦車と起動力の高い中戦車を揃えた布陣だ。
この車両陣に敵う高校生部隊は早々いない。
大会10連覇に向けて死角はなかった。
「三号は囮に専念するとして、他の車両はどう立ち回ればいいのかしら?」
パンターG型の車長である西條はまほに質問した。
「西條のパンターは単独で行動して貰う。走攻守すべて高レベルで備えているパンターならプラウダのどの戦車にも対応可能だ」
西條はまほの言葉を聞くと顔色を変えた。
「え、ちょっと待って、今なんとおっしゃいました?単独ですって…?」
「お言葉ですが隊長。いくらなんでもそれはパンターの能力を過信し過ぎでは?西條に死にに行けと言っているようなものです。起動力のある三号と組ませるか、バックに駆逐戦車を置いた方がいいと思われます」
同じくパンターG型車長、三年生の壇之浦花代(だんのうら かよ)もまほに進言した。
壇之浦は前年度より参謀役を担っている人物だった。
「私は無下に車両を失うような陳腐な指示はしない。確かに壇之浦の言うように通常ならばそういった構成が最適だが、今年のプラウダには正攻法がことごとく通用していないのは貴様も知っているだろう。常に冷静な試合運びで、あの聖グロリアーナも難なく葬りさった。我々はプラウダの裏の裏をかく必要がある。美神、説明してくれ」
「はい」
まほに呼ばれた美神玲奈(みかみ れいな)は二年生でパンターG型の車長だ。
まほに心酔している忠実な部下の一人でもある。
美神はプロジェクターに地図を映し出した。
「決勝戦の舞台ですが、土地のほとんどが渓谷や岩石地帯です。基本的に道も狭く、高低差の大きい切り立った崖も多いです。至るところに大小の川が流れており非常に立ち回りが難しい地形となっています。特に駆逐戦車は車体構造上、かなり行動が制限されてしまいます。射線があまり通りませんから長距離からの砲撃も不可能です」
「駆逐戦車はあまり役に立たないということか」
エレファント重駆逐戦車の車長、高良雅美は嘆くように言った。
すかさず美神は言葉を続ける。
「ですが、副隊長のプラウダ偵察で得た情報によって敵の配置位置は把握済みです。敵への有効な攻撃が可能である位置も算出しています。地図西側をご覧ください。ここの渓谷地帯に敵の半数が向かってきます。駆逐戦車は速やかに指定位置に向かい、この敵部隊を待ち構えます。敵部隊の構成ですが、IS-2、T-34/85が2両、T-34/76が5両です。敵は渓谷地帯にこの主力部隊を潜ませ、残り5両のT-34/76でこちらを誘い込む作戦です。ただ、敵の位置も作戦も筒抜けです。敵の配置完了後、駆逐戦車は攻撃可能位置から砲撃を行って下さい。ただ当然敵も反撃してくるので、駆逐戦車だけでは対応できません。西住隊長のティーガーとエリカのティーガーⅡ、陽鷹先輩のマウスは防御力を生かして渓谷地帯へと向かい、攻撃に厚みを加えます。駆逐戦車は出来るだけ身を隠しながらの狙撃に専念し、前進する重戦車部隊を援護します」
「ちょっと待て」
美神は説明を止めた。
「どうしました?陽鷹先輩」
三年生でマウス車長の陽鷹楚和(ひたか そわ)は眉間にシワを寄せていた。
「いくら装甲が厚いとはいえ、平地のほとんどない悪路を強引に攻めるのは些か無理ではないか?ティーガーやマウスでは進もうにも全く速度が出ないぞ。仮に進めたとして、こんなに崖が多くては車体重量により、まず間違いなく足場が崩れるだろう」
陽鷹の指摘は当然のことだ。
ティーガーⅠは57t、ティーガーⅡは70t、マウスは188tもの車体重量がある。
更にマウスに関しては9mもの車体長である。
どう考えても渓谷等の局所的な場所では運用に無理があった。
「敵にも重戦車のIS-2がいるが、ティーガーⅠよりも比較的重量が軽い。渓谷でもなんとか運用はできよう。だが我々の重戦車は無理だ。敵もそれを狙って渓谷に潜む作戦に出ているはずだ。渓谷に向かって進めば、敵の砲弾の嵐にさらされるのは目に見えているぞ」
「ふん…陽鷹流の名が聞いてあきれるな」
陽鷹の鋭い目は一瞬にして声の主を捉えた。
「なんだと?西住、もう一度言ってみろ」
まほと陽鷹は睨み合うように向かい合った。
日本戦車道の流派の一つである陽鷹流。
西住流ほど有名では無いが、古くから伝わる由緒正しき流派で、陽鷹楚和はその後継者であった。
陽鷹は三年生の中ではリーダー的存在だ。
まほがいなければ、彼女が今年の部隊隊長であっただろう。
だが5月初旬に行われた、一年生との隊長任命をかけた試合に彼女は出ていない。
何故か隊長候補者から外されてしまっていた。
陽鷹は藤村二佐に異議を申し立てたが、実力不足だと一蹴された。
陽鷹を中心とした上級生(三年生)グループは不満を隠しきれず、まほを中心とした下級生(一、二年生)グループと度々対立していた。
「最後まで話を聞け、陽鷹。フラッグ戦であることを忘れてないか?このIS-2を中心とした敵部隊の中には、当然ながらフラッグ車はいない。フラッグ車であるT-34/85は、KV-2と共に北側にある教会跡に隠れている。ここを西條のパンターで強襲する」
「パンター単機でか…?ということは我らのマウスも囮ということか?」
「そうだ」
まほは西條の方を向いた。
「西條。貴様に敵の大将首を獲ってもらう。お前以外の味方はすべて囮だ」
西條は驚きの表情から一変し、狡猾な笑みを浮かべた。
「くっくっ…そういうことでしたの。私に花を持たせるとは成長しましたわね、隊長殿。その作戦、この西條九十九の名において成功させて見せましょう!」
西條は声高々に言い放った。
陽鷹は眉間にシワを寄せたまま沈黙している。
「隊長、その作戦はギャンブル性が高すぎるのでは?」
参謀役の壇之浦は再び苦言を呈した。
「敵にこちらの作戦を悟られぬ為の西條による単独行動ということでしょうが、もし少しでも西條の姿が敵に見つかったとしたら、この作戦はすべて台無しになってしまいます。仮に敵に見つかることなくフラッグ車まで辿り着いたとしても、T-34/85は決して弱くはありません。パンターには劣るでしょうが、KV-2もお供についているとなれば、勝てる見込みは五分五分であると思います」
T-34/85は、T-34/76の砲塔を85mm砲へと大型化し、攻撃力を高めた戦車である。
機動力や傾斜装甲による防御力もそのまま受け継いでおり、非常にバランスの取れた車両となっている。
ナチスドイツ軍のバルバロッサ作戦に対するソ連の大反攻作戦、バグラチオン作戦では、生産性の高さも相まって大いに活躍した。
プラウダ高校の隊長、カチューシャの搭乗するT-34/85は最も後期に生産されたタイプであり、運用上多数あった問題等も解決されて攻撃力も更に増している。
プラウダのフラッグ車は、この隊長カチューシャのT-34/85である。
「壇之浦、お前も最後まで話を聞かないやつだな。美神」
まほは再び美神に作戦を説明させた。
「はい。西條先輩は最初から単機行動をとるのではありません。試合開始と同時に西條先輩、壇之浦先輩、宮城先輩のパンター3両は、三号戦車2両を伴って中央の岩石地帯へと直進します。その後を私のパンター、赤星達の三号戦車2両、フラッグ車である副隊長のティーガーで追います。ちなみに私と赤星達の三号2両は副隊長のティーガーを守ることが最優先事項です。岩石地帯には囮のT-34/76が5両潜んでいます。対してこちらは縦深突撃陣形をとり、奇襲作戦を仕掛けると見せかけます。勢いに任せてまずT-34/76を1両撃破します。残りの敵は逃げるように西側の渓谷地帯へと向かうでしょう。これをそのまま追いかけます。追いかけつつも攻撃を行い、あえてこちらの車両を敵に晒して、車両数と車種を悟らせます。そして地図で示してあるこのA地点まで到達したら、西條先輩のパンターは離脱し単独で北へ向って下さい。その時、敵にばれないよう西條先輩は部隊の最後尾へと回っていて下さい。西條先輩以外の車両はそのままT-34/76を追いかけつつ西側の渓谷地帯へ向かって下さい。壇之浦先輩と宮城先輩のパンター、お供の三号戦車2両は渓谷地帯に進入します。それと同時に配置についた駆逐戦車は攻撃開始。隊長を始めとする重戦車部隊も攻撃に参加し、渓谷地帯の敵戦車壊滅を目指します。副隊長のティーガーとそれを守る私のパンター、赤星達の三号戦車2両は渓谷地帯には入らず、ここのB地点で待機します。そして西條先輩は敵フラッグ車を発見次第、撃破して下さい」
美神の説明は終わったようだ。
「うまくいきますかね…」
壇之浦は心配そうな顔で地図を見つめていた。
まほは静まり返った周囲を見渡すと、立ち上がった。
「この場にいる隊員、特に経験豊富な三年生の先輩方には、私は心から敬意を表している。先輩方が百戦錬磨の実力者達だと確信しているからだ。そして副隊長の偵察により敵の思惑はすべてこちらの手の内。圧倒的な実力差によって敵を葬り去り、我ら黒森峰が最強であることを世に知らしめねばならない。この戦いが終わった時、諸君らの胸には王者の称号と王者である誇りが与えられるであろう」
まほの演説が終わると美神は率先して拍手をし始めた。
続けてエリカを筆頭に一年生、二年生と拍手は広まった。
西條以外の三年生は弱々しく手のひらを叩いた。
まほは鳴りやまぬ拍手の中、みほが会議室から出て行くのを見た。
「では最終作戦会議はこれにて終了。各員とも本番までに十分な休息をとり、決戦に望んでくれ。以上」
そう言うとまほは出ていったみほを追いかけるように会議室を後にした。
まほは隊長室に入ると帰り支度を急いだ。
校門に停車している車の中でみほを待たせていた。
突然スマートフォンの着信音が鳴った。
まほは画面に映った名前を見て、すぐに電話に出た。
「富男、どうしたの?」
『まほ、もう学校は終わったのかい?』
「ええ、今から帰るところよ。何か用事?」
『決勝戦前で忙しいとは思うんだけど…今から会えないかな?どうしても伝えたいことがあるんだ』
「伝えたいことって…今言えばいいじゃない」
『その…君に会って直接伝えたいんだ。ダメ…かな?』
「わかったわ。一度家に帰るから、それからまた待ち合わせしましょう。準備ができ次第こっちから連絡するから」
『ああ、頼むよ…』
「じゃあちょっと急いでるから切るわよ」
『ああ…』
まほは電話を切った。
だが富男の様子がなんだかいつもと違っていたことに少し心配になった。
不安感に襲われたまほはすぐにリダイアルした。
しかし、1分近くコールし続けても一向に富男は電話に出なかった。
仕方ないのでまほは電話を切った。
そしてスマートフォンをカバンに入れた。
「帰ろう」
まほは隊長室を出て、校門へ急いだ。
校門に停まっている西住家の車へと早足に向かった。
後部座席にみほが座っているのが見えた。
車に近づくとみほの様子がおかしいのに気づいた。
運転手の松下権三郎と何か言い争ってるようだった。
まほは後部座席の窓をノックした。
みほがビックリした表情でこっちを見た。
権三郎は慌てるように車から降りて来て後部座席のドアを開けた。
「お帰りなさいませお嬢様。ささ、お乗り下さい」
「ああ」
まほは車に入ると、どさっと音を立ててぶっきらぼうに座った。
権三郎は運転席へ戻るとエンジンをかけた。
「1日中学業と戦車道でしたからお疲れでしょう。すぐに熊本の家までお送りしますからね」
そう言うと権三郎は車を発進させた。
「二人はケンカでもしているのか?」
まほの急な問いに車内の雰囲気が一瞬固まった。
「そ、そんなことはありませんよ。ケンカなんて滅相もない…」
権三郎はばつが悪そうに言った。
「さっきは二人で言い争っているように見えたんだがな。何か私に隠しているのか?」
「いえいえ…」
小さな雨がフロントガラスを叩き始めた。
権三郎はワイパーのレバーを引いた。
「お姉ちゃん」
黙っていたみほが口を開いた。
「なんだ」
「今から私お婆ちゃんに会いに行こうと思う」
「お婆様にだと?何故だ?」
西住桜穂(にしずみ おうほ)は西住姉妹の祖母にして、現西住流家元。
強力な戦車を有する一大組織の総元締めだ。
その姿はめったに世間に晒すことは無く、まほ達も年に数度しか顔を合わせることは無かった。
「みほお嬢様、それはお控えになった方が…」
「権爺は黙ってて。お姉ちゃん、私はね、許すことはできないの。決して許すことはできない…」
みほの手は震えていた。
「許すことができない…?何がだ?最近のお前は変だぞ。相当悩んでいるのか?」
まほは心底心配になって、下を向いたまま目を真っ赤に充血させたみほの顔を覗きこんだ。
「真由さんを殺した犯人が知りたい…。その為にはお婆ちゃんに話を聞く必要があるの」
「真由さんを殺した…?…転校した一年の大暮真由のことか?殺されただって?何を言っているんだお前は!?」
「真由さんが転校したっていうのは全て嘘だよお姉ちゃん。真由さんは転校したんじゃない。殺されたの。プラウダの偵察任務中にね。生徒が死んだとなれば、高校戦車道の大会なんて即刻中止だからね。おそらく黒森峰と西住流が手を回して真由さんが殺されたことを隠したんだと思う」
「ちょっと待てみほ、あまりにも突拍子もない話だぞ。いきなりなんだ殺されたって?そして黒森峰と西住流が関係しているだと?どこから得た情報だそれは?確かにお前と大暮は大分仲が良かったみたいだから離ればなれになったのはショックなのだろう。だが殺されたっていうのはいくらなんでもお前の妄想が過ぎていると言わざるを得ない。気は確かか?」
「私は狂ってなんか無い!狂ってるのはみんなの方だよ!お姉ちゃんの方だよ!なんでみんなおかしいと思わないの!?だってあの偵察任務以降、誰も真由さんと会って無いんだよ?私を含めて…。いくら急な転校だからって挨拶も無しに立ち去るなんてあり得ない。私にとっては唯一の親友だったのに…私にも一言も何にも無い。そんなの絶対におかしいよ…」
「確かにお前の言うことにも一理ある。はっきり言って、私はお前以外の一年生になど全く興味が無いから大暮が転校したこともあまり気に止めていなかった。だが殺されたとなれば話は別だ。黒森峰と西住流が揉み消したということも含めて。権三郎もこのことを知っていたのか?」
「…」
権三郎は黙ったまま運転している。
車の外は大雨だった。
みほは一瞬まほの顔を見ると、再び下を向いて口を開いた。
「真由さんが殺されたことはね…権爺から聞いたんだよ」
「なんだと!?」
車は急停止した。
後部座席のまほとみほは慣性の法則に逆らえず前の座席のシートに体を預けた。
体を起こしたまほは権三郎に背後から迫った。
「権三郎…なぜそんな話をみほにした?そしてなんでそんな話を知っている?」
「…」
「答えろ!!」
権三郎は被っていた帽子で表情を隠した。
「私はね…大暮さんが殺されたと知ったとき、みほお嬢様には絶対に伝えなきゃと思ったんです。みほお嬢様は大暮さんのことを大変好いておられましたから。私はみほお嬢様の心を大事にしたい。人が人とて生きる為の心。それを忘れてはいけません」
「また訳のわからない老人の戯れ言か!こんなにもみほの気が落ち込んでいるのは、お前が変な話を吹き込んだせいだぞ権三郎!」
権三郎はまほを無視するかのように後ろを向いてみほを見た。
みほも権三郎を見返す。
権三郎は再び前を向きなおしてハンドルを握った。
「わかりました。では参りましょう、桜穂様のお屋敷へ」
「おい、待て権三郎!」
まほの言葉に権三郎は見向きもせず、車を西住桜穂の元へと向かわせた。